開演前の空気が好き

舞台中心の感想置き場です。

MEZZO"『フォトフレーム』考察未満感想 ─「幸せ」を知った「僕ら」の決意の歌

 

お優しいフォロワーさんから、曲の分類の解説とともにリクエストをいただきました!!
大変お待たせしてしまいすみません><

いつもながら考察と呼べるほどのものかは謎ですが、頭をフル回転させて書きました!ということは自信を持って言い切れます笑 ご期待に添えられていますように……!

 

現在メインストーリーは3部10章まで履修済で、
MEZZO"の楽曲は初期のもの(『miss you...』、『恋のかけら』、『雨』あたり)は聴いていますが、そのほかは「曲の存在だけで重大なネタバレになるものもある」と教えていただいたので聴いておりません!(厳密には一回だけ全曲通して聞いたけどもう記憶なくなってます)

こちらの『フォトフレーム』は2023年リリースということで、時系列的にはかなりすっ飛ばして聴いていることになります
(改めて考えると初期の曲の感想先に書いとくべきだったかな……という気がしてきました笑)

のでこの曲を聴いてまず思ったのは

めちゃくちゃ進展(?)してる……!!

もとから切ない恋愛ソング専門って感じのMEZZO"さんでしたが、ついに“幸せ”について歌えるようになったんだ……おめでとう……泣 という気持ちでいっぱいでした笑

ただ、ハッピー!イェイ!みたいな曲ではなくしっかりしっとり切ないのもMEZZO"らしさを保ったまま成長(?)しているような感覚ですごくいいな……と思いました

これメインストーリー全部履修してから改めて歌詞読んだらまた感想と感慨深さが全然変わってきそうですよね
そのころこの感想を読み返したらめちゃくちゃ恥ずかしく感じるかもしれませんが笑、とりあえず今の感想!ということで投稿します!

 

最初にこの曲全体について思ったことざっと書きます

一貫して、“大切”とか“大事”とか“かけがえのない”といったワードが一切入っていないのにもかかわらず、こんなにも愛にあふれた歌詞になっていることに脱帽しました
直接的なワードを使わず、ほとんどシチュエーションの提示と比喩のみで、大切な人たちを慈しむ気持ちを表現している…………

 

また、個人的には、MEZZO"はMEZZO"のふたりだけで完結している関係性なのではなく、大前提としてIDOLiSH7というグループが土台にあると思っているのですが、
そんな中でもこの曲がIDOLiSH7の曲ではなくMEZZO"の曲だということにすごく意味があるなあと感じました

というのも、IDOLiSH7は”喪失”というものを知っているか知っていないかによって、メンバーを綺麗に、しかもグラデーションをつけて分けることができると個人的に思っているんですね
※3部前半までに出ている情報で判断していますので以後変わってる部分とかありましたらご容赦ください

”喪失”を
知らない
 ↑      一織
 ↑      三月
 ↑      大和
 ↓      陸(家族と生き別れ)
 ↓      ナギ(親しい友人が失踪→……)
 ↓      環・壮五(家族と死別)
知っている

↑だいたいこういう感じのです

ストーリーでもたびたび出てきますが、IDOLiSH7の中でもMEZZO"のふたりは人生のかなり早い段階で、しかも彼らにとってとても大切な家族を亡くすという経験をしていますし、それだけではなく精神的に恵まれているとは言えない境遇に幼少期から事務所に入るまでの長い期間置かれていました

そんなふたりがこういった内容の歌を歌うということ、歌えるようになったということに、すごく意味を感じますし感慨を抱いてしまいますね…………

ちなみに一織・三月・大和を同列にしていないのは
・三月は推しが突然消えている
・大和は自身の出生について知ったことで見えている世界が変わるという経験をしている
のでそれらを個人の感覚で順にしています

まだ何も失っていない(※個人の主観です)和泉一織、つよい……

(もちろん喪失を知らないからといって何も分かってないとか人生経験がないとか言おうとしているわけではないです ただ喪失を知って乗り越えようとした経験があるかどうかは意識的にも無意識的にも価値観に大きな影響を与えるのではと個人的に思っているのでこういう分け方をしています)

それにしても最年少組がこの点に関して完全に対極なのすごいな……(ただの感想)

 

なお、この曲の主語はほぼ一貫して「僕」のため、「僕」=主人公としてひとりの人格が語ることとしてとらえています

 

 

1番 Aメロ1

少し高い声 走り抜ける

待ち受けるよう抱き上げる両腕

大小ふたりの繋がる影

そっと見送り 歩き出した午後

ざっくり分けると、1番では家の外でのできごと、2番では家の中のできごとを描写していますね

「少し高い声」→子どもの声
「大小ふたりの」→大人ひとりと子どもひとりの計ふたり
と推測できます

1番Aメロはほとんどそのままの情景描写ですが、おそらく
街を歩いているさなか、走りながら家族を呼ぶ子どもの声にはっと目を向ける「僕」
→視線の先にはその子どもを待つ家族がちゃんといて
→無事に家族を見つけて手を繋ぎ歩き出す様子を見届け、「僕」は自分の道に戻っていく
というシーンですね

まずこのシーン、ひいては歌詞全体のとっかかりになっている「少し高い声」に主人公が気付くという部分ですが、
周りにいる人が気付く程度の声ということはそこそこのボリュームで、さらに以後のシチュエーションから家族を呼んでいる声だと推測できます
主人公はその声に気付き、その子が家族に抱き上げられて歩き出すまでを見守っていますが、この描写から主人公は声を上げた子がちゃんと家族と会えるかな?と心配して目で追っていたのではと思いました

(よく、一度子育てを経験すると自分の子の声でなくてもおかあさん!おとうさん!という声には無意識に反応してしまう、という話がよくありますが、今回の場合はどちらかというと”家族を呼ぶ子ども”側に共感して目を向けているのではと思う)

心配に反して無事に子どもは家族を見つけ抱き上げてもらうことができるわけですが
その姿に、そうなれなかった過去の自分(家族に抱き上げてもらえなかった自分、抱き上げてくれていた家族を失った自分、ひいては家族を大声で呼ぶこともできなかった自分)を対比させているのではないかなとも感じました

しかしそこに悲しみや嫉妬はなく、その「大小ふたり」の様子にほっと安心しているということが「そっと見送り 歩き出した午後」という部分からわかります

 

1番Aメロ2

駅前 せわしく 行き交う人

帰宅ラッシュどき それぞれ帰り着くだろう

主人公は「駅前」に移動してきたようです

ここで主人公は、混んでて嫌だな……という方向ではなく
たくさんいる人みんなに帰る家があるんだ、ということに意識を向けており、精神的に余裕があることが窺えますね

 

買い過ぎたフルーツを 抱え僕も

その中に紛れ込んでみた

「買い過ぎたフルーツを」という歌詞を壮五くんが担当している!
(ほかの曲で「スパイス」という歌詞が壮五くんに割り振られていたのでこの歌詞割りにも意味を見出して平気そうだな、と思ったのですがなんの曲だったか全然思い出せなくて……違ったらごめんなさい でも他の子たちにも意味を感じる歌詞割り結構多いので大丈夫だと思うんですけど)

つまりこの歌詞における「フルーツ」は
自分から好んではあまり食べないもの
→でも買って帰る
→一緒に住んでいる人(たち)のため
という、”大切なだれかのためのもの”の象徴として配置されているのではないかなと思います

※以後、”主人公と一緒に住んでいる大切なだれか”のことを『大切な人』として表記します(厳密には”だれか”は複数人いそうなのですが全部に『大切な人(たち)』とつけたら読み辛すぎたので単数と複数を厳密に区別しなくても許される日本語に頼ります)

ここの歌詞割りがもし環くん(甘いもの好き)だったら、自分でも食べるものという位置付けになるので、”だれかのために買って帰る”という意味合いは薄れます
その場合同じ表現をするなら野菜とか辛いものとかが当てはまるかと思いますが、野菜だと日常感が強いというか、「フルーツ」というワードにあるちょっとした特別感みたいなものがないですし、辛いものだとちょっと対壮五くん限定すぎる()ので、ここでは壮五くんに「フルーツ」と歌ってもらうのがすごくちょうどいいなと感じました笑

(このバラードでいきなり「タバスコ」とか出てきたらちょっとおもしろすぎるな)

 

その上で「買い過ぎたフルーツ」という表現に立ち返ってみると、自分が食べたいからではなく、『大切な人』が喜ぶ顔を見たくてたくさん買ってきてしまったのかな、というふうに思えて……
さらに、その「フルーツ」を「抱え」ているというところに、傷つけずにきれいなまま持ち帰ってあげたいという気持ちが現れているように思います

尊い……ですね…………

 

また最後の「紛れ込んでみた」の「みた」について

〈〜してみた〉という日本語の表現は、
・いいかどうかわからないので実際に行動して確かめる (例:挑戦してみます←実行はするがその結果どうなるかは不明というニュアンスがある)
試しにその行為をする (例:ひとくち食べてみる)
のように、”お試しで”何かをするときに使われます

この方向で解釈を膨らませると、主人公は「紛れ込む」という行動が自分にとって当たり前のこと、自然なことではない、
つまり「それぞれ帰り着く」家がある「行き交う人」とは自分は本来異なっていると思っていることが窺えます

ですがここで「紛れ込んでみ」ようと主人公が思えたのは、「買い過ぎたフルーツ」をきっと喜んでくれる相手である『大切な人』がいるから、『大切な人』が待つ家が今はあるから……ということなんじゃないでしょうか…………

この「紛れ込んでみた」という表現、”以前の「僕」ならできなかったけど今ならそうできる気がする”
というような、少しの気恥ずかしさというか、照れくささを感じられてとても好きな表現ですね……

 

1番Bメロ

笑い顔 似てくるんだね

並ぶ誰かで 再発見して

Aメロから引き続き人混みの中で、人々を観察しているシーン

「並ぶ誰か」はおそらく主人公の視界にいる親しい仲と思われる複数人連れだと推測できるが、さらに「似てくる」という言葉がついているということは
→もとから似ているわけではない
→血の繋がった家族(親子、きょうだいなど)ではない
→夫婦・恋人・パートナー同士・親友などなど人生の中で出会って関係を深めてきた人たち
を見て、「笑い顔」って「似てくる」んだなあ、と「再発見」していると思われます

そして「再発見」とわざわざ「再」がついているということは、おそらく主人公は自分と自分の『大切な人』との間で「笑い顔」が「似てくる」と以前気付いたことがあるということを指しているのでしょう

 

そして、「並ぶ誰か」が(おそらく)楽しそうに笑っている様子から目を逸らすことなく、見守ることができているというところからも、主人公が今精神的に満たされていると推測できます
(Aメロ1でも書きましたが、もし満たされていなかったら悲しいことを思い出したり嫉妬を覚えたりして目をそらしている描写になるはず)

 

瞬きがシャッターになったよう

またひとつ ほらストロボ 光る

ここちょっと解釈に迷うんですが、
個人的には「瞬き」を
①「並ぶ誰か」の動作ととらえる
②「僕」=主人公の動作ととらえる
このどちらかで変わってくるのではないかなと思ってます

①「並ぶ誰か」の動作ととらえる場合
Aメロ2前半からつながっているシーンで、談笑する「並ぶ誰か」の「瞬き」を「シャッター」に例えている(そのまま)
内容が聞こえているわけではないと思いますが、たぶん「並ぶ誰か」がすごく楽しそうなんでしょう、瞳をきらきらさせて話している様子を「ストロボ」に例えることで、
「並ぶ誰か」にとって記憶にずっととどめておきたいほど楽しい一瞬なんだろうな、と主人公が思っているのかなと思いました

②「僕」=主人公の動作ととらえる場合
直前のシーンを受けて主人公が、
自分と『大切な人』が「似てくる」ほど長く、近く一緒に過ごしてきたんだな、と改めて実感
→胸がいっぱいになる
→思わず涙が溢れそうになる
→その涙を押し留めようと大きく何回か意識的に瞬きをする
↑ぱち、ぱち、と音がしそうなほどのこの瞬きを、シャッターに例えている?

通常瞬きって無意識におこなっているものなので(周期性まばたき)、わざわざ意識にのぼるということは瞬きを意識的におこなうきっかけが何かあったのかな?と考えたことが発端です

「またひとつ」「光る」「ストロボ」というのも、
明るいところで涙目になると、目に溜まった涙に光が反射してきらきらして見えますが、それをストロボに例えているとも捉えられる?

(そう考えると思いつきのわりには辻褄が合うかも……?)

あとこれは妄想に近くなってしまうけど、悲しい・悔しい以外で涙をこらえるときって上を向くことが多いと思うので、このときの「僕」の瞳には夕暮れの空が映っていたらいいな、と思いました


もちろん上に書いたふたつの解釈以外にもいろいろ考えられると思います!

 

あとここの歌詞割(「またひとつ」「ほらストロボ」「光る」で分かれてるの)本当に本当に好き 歌い繋いでいるというか、ふたりで分け合って歌ってる感じがしてすごく好きですね

 

1番サビ

小さなフォトフレーム

瞳に映る肖像

この部分から、この曲における「フォトフレーム」は「瞳」ということがわかります

ここでこの「瞳」は誰の瞳なのかという疑問が出てきますが、個人的には①主人公と②主人公の『大切な人』、どちらも当てはまるのではないかなあと思いました

①まずストレートに「僕」=主人公とすると
「瞳に映る肖像」というのは、“自分の目の前にいる『大切な人』の姿”
という意味になりそうですね

②次に”大切な人”とすると
“自分を見つめる『大切な人』の瞳の中に映る自分の姿”
という意味としても捉えられそうです

個人的には後者②のほうが、
・「瞳に映る肖像」という表現を聞いたときそのままイメージする状態に近い
・「フォトフレーム」に入った写真(=「瞳」の中「に映る肖像」)を見ているという状態に近い
ように感じられるので後者なんじゃないかな〜と思ってます

後者だと考えると、相手(『大切な人』)の瞳の中に映る像が見えるくらい距離が近いんだな……ってことにもなりますね笑 相当近くないと見えないので

 

そして、この曲のタイトルにもなっている「フォトフレーム」という言葉についてもここで考えておこうと思います

フォトフレームは写真を飾るための額縁のことですね
逆に考えると、飾っておきたい写真がフォトフレームの中に入っているということになります

もっと言うとフィルムカメラがほぼ使われなくなった現代においてフォトフレームに入れて飾られる写真というのは、現像しなくても見返すことができるデジタルデータから飾りたい写真を選び、写真紙に印刷してから額に入れるというかなり手間のかかるものですね

この”飾っておきたい写真”というのはおそらく、”ずっと忘れずに保存しておきたい、そして時折取り出してきて眺めることでその時の気持ちを追体験したい、と思うほど大切な思い出”と考えることができそうです

ここから、以下この記事では“「フォトフレーム」に入れておきたい状態”のことを『幸せ』と表現することとします

そしてその写真=大切な思い出の入る「フォトフレーム」を「瞳」に例えているということはつまり、
『大切な人』と過ごしている今は、瞳に映るすべての瞬間が『幸せ』で大切な思い出である、ということを言っているのかなと

ちょっと先取りになりますが「一粒も零せない」という歌詞も、大切じゃない瞬間なんてない、という意味でここの解釈に繋げることも可能かなと思います

 

いつかの日、ただ眺めていたその眩しさ

この歌詞から、過去の主人公は前フレーズで記述したような『幸せ』な状態「ただ眺めていた」つまり外から見るのみで、主人公自身はそのような状況に置かれていなかったということがわかります

また「その眩しさ」という表現からは、主人公が『幸せ』に羨ましさや憧れを抱いていた(/いる)ことが窺えます

さらに「いつかの日」という表現から、過去は直近ではなくそれなりに年月が経っていると推測できそうです

Aメロの「紛れ込んでみた」に加えてこの一節があることによって、主人公が過去『幸せ』な状況には置かれていなかったということが明確にわかるようになっていますね

 

扉を開けたら今

賑やかなほど おかえり

情景描写パート

『大切な人』が家で自分の帰りを待っていてくれる、そして自分が帰ってきたことを「賑やかなほど」喜んでくれるということが主人公にとっての『幸せ』……

なんてささやかなんでしょう…………泣

 

息を止めて受け止めた

一粒も零せないもの

これの名前だって

僕はもう知ってる

「息を止めて」という表現についてですが、
一般的に「息を止めて」しまうシーンとしては、集中して細かい作業などをしたいという場合が考えられます
つまり、「息を止め」るくらい集中して、注意深く、「一粒も零」さないように“それ”を「受け止め」るということかなと思います

また、「息を止める」で検索したところ類語として“息を呑む”が出てきました
“息を呑む”というのは“驚きなどで呼吸を止める”というふうに解説されており、つまり、自分の帰宅を迎えてくれる人がいることに、思わず“驚いて息を止めて”しまうほど毎回新鮮に嬉しさを感じている、というようにもとらえられるかな……と思いました

 

「これの名前」が何なのかは、最後に答え合わせがきますね(記事内ではもう言っちゃってますが)

 

2番Aメロ

誰もいない時 いつもよりも

リビングソファ 大きい気がして

2番に入り、歌詞のシチュエーションが室内=この曲においては主人公が『大切な人』と暮らしている家に変わります

「誰もいない時」の「誰も」という部分から、主人公はおそらく3人以上で住んでいる?と推測できます(もし二人暮らしのみを想定しているのであれば「君がいない時」になるはずなので)(音数も不自然じゃないし)

そう考えると、やっぱりこの歌詞における家ってアイナナ寮のことなのかな?と思えてきます(この曲がリリースされた時空でまだみんな寮住まいなのかどうか知らないのですが)
個人的に、歌詞がそのまま歌い手の心情を表しているというふうにはあまり考えないようにしているんですが、この曲に関しては特に(アイナナ世界の)現実とのリンクが多い気がしてつい直接的に考えてしまいそうになりますね

 

「リビングソファ」が「大きい気が」するというのは、いつもは誰かが座っているソファに誰もいないのを見たことで、今は『大切な人』たちがいないのだということを認識し、寂しさを覚えた表現と解釈できます

もっと言うと、きっと主人公はひとりで家にいても特に寂しくは感じない(と自分では思っている)ものの、空のソファを見たことによって不在を実感し、寂しさが募ってしまったのかなと思いました

 

躊躇って そのまま 返す踵

一人では使い切れないから

主人公はおそらくもともとはその「リビングソファ」に座ろうとしていたものの、「一人では使い切れない」と感じて座るのをやめています

この「一人では使い切れない」、いろいろ解釈の余地がありそうだなと思いますが、個人的にはやはり直前のフレーズでも言及したとおりストレートに“寂しいから”かなと思います
いつもは誰かと使っているものをひとりで使うことで、その誰かの不在を強く感じて寂しくなってしまうのを避けたい、ということかなと……

また同時に、やっぱりこの主人公にとっては“誰かがいる”状態が当然のものではないと思っているのだなということが窺えてしんどいですね
もしみんながいることが当然だという境遇の人であれば、(もちろん人によると思うけど)誰もいないソファを見たとき
今日は広々使える!
と思うのではないか……?と思うので……

 

2番Bメロ

真夜中に ふと目覚めて

理由ないまま 隣の部屋

場面変わって「真夜中」

「ふと目覚め」た理由は特に書かれていませんが、「隣の部屋」に行くということは、(Aメロから引き続きですが)やはりひとりでは寂しいと感じる何かがあったからなのではないかなと思います
次のフレーズの内容を含みますが、特に起こしたりはしていないようだし「ふと」なので喫緊の要件ではないことは確か
これは想像だけど夢見が悪かったりしたのかなと思いました

寝付けなくてではなく「ふと目覚めて」なので一回は眠っているということ
ここからは結構膨らませた解釈ですが、
今現在は精神的に不安定な状態ではない(うまく眠れないというわけではない)ものの、ふと何かの拍子に過去を思い出すような嫌な夢を見てしまったり、不安になったりしてしまう、つまり今も過去から完全に解放されたわけではないということを表しているのかな……と思いました

 

暗がりの中で呼吸が

明日への地図みたいな響き

「隣の部屋」で眠っている人=『大切な人』が、主人公が部屋に入ってきたことに気付かずすやすやと寝息を立てているシーン

ここめっっっっっちゃ尊いですよね…………(合掌)

まず、主人公が部屋に入ってきたことに気付かないで眠り続ける『大切な人』
ここで、『大切な人』が主人公に完全に心を許していること、今置かれている環境に安心しきっていることがわかります(もし少しでも警戒していたら気配に気付いて目を覚ますはずなので)

また、「暗がりの中で呼吸が」ということは、『大切な人』の姿が見えていなくても、呼吸の音を聞いているだけで主人公は安心できるのだ……ということもわかります(尊)

 

そしてその「呼吸」を主人公は「明日への地図」と表現しています…………(尊さ最大瞬間風速)

これもいろいろな解釈ができると思いますが、個人的には、
『大切な人』と同じ屋根の下で暮らしていて、相手が安心しきって眠っていてくれる今の状況をとても嬉しく、愛しく思っていること、さらにはこの状況がずっとこれからも続くように努力していきたい、と思っているということかなと

ここであえて、”今の状況がこれからもずっと続いてほしい、と思っている”と書かなかったのは理由がありまして
「地図」という表現は、目標までの道筋の暗喩として使用されることが多い単語です
つまり、今の状況は当たり前に享受できるものではなく、努力の末にたどり着くことができるもの、そして維持するのにも不断の努力が必要なものだと主人公は考えているのかなと
なので、”続いてほしい”といういわば人まかせにも感じられる表現ではなく、”続くように努力していきたい”という自発的、能動的なニュアンスを入れたかったのです

なんだか長くなってしまいましたがまとめると、この安らかな寝息をこれからもずっと聞き続けられるように頑張ろう、と主人公は思っているんじゃないか、という話でした!

そしてこの「地図」になるものが笑顔とか抱きしめて感じる体温とかじゃなくて「呼吸」というところが本当にささやかで健気で……日常の本当にささいなことにも、というよりささいなことにこそ、主人公は憧れていた『幸せ』を感じているのか…………と思えて尊いです…………

 

2番サビ

覗き込んでフォーカス

当たり前になりかけ

なりきらない世界が映り続けてるから

サビ前半はカメラや写真に例えたフレーズが共通して入っています

「覗き込んで」→よく見て
「フォーカス」→焦点を合わせて

「当たり前になりかけ なりきらない世界」という部分
「世界」を今の状況だと捉えると、やはり主人公は今の状況(=『幸せ』を感じられる状況)を当たり前のものだとは思っていないことがここで明言されています

この「なりかけ なりきらない」という表現について、ストレートに
今は『幸せ』を感じられる状況だけど、たまに何かしらの障害やすれ違いが起こることによってその状況が揺らぐこともある、という意味かなと思うのですが、
個人的には、主人公がこの『幸せ』を「当たり前」ではないと知っているからこそ、今の状況を「当たり前」だと完全に思うことはできない、という意味も含まれているんじゃないかな〜〜……と思いました

 

出来るだけ未来まで

真剣にピント合わせて

「当たり前」ではないからこそ、「出来るだけ未来まで真剣に」
「ピント合わせて」→被写体がくっきり映るように調節すること
また、「ピント」だけだと”物事の一番重要な点、中心点、要点”という意味もあるそうで

つまり、一番大事なものは何なのか見失わないようにはっきりと見定めて、それを追い求めていこうという決意が感じ取れます

 

キミと同じ瞬間に居座っていたいこのまま

それは願いだって

僕はもう知ってる

ここも好きポイントです!!

この「居座っていたい」…………
「居座」る、って本来はいい意味の言葉ではないと思うのですが
(ある場所に座って動かないでいる。座りこんだままでいる。また、比喩的に好ましくないものがとどまって動かないでいる。 デジタル大辞泉より)

つまり、主人公は自分自身が『幸せ』でいつづけていい存在ではないと感じている……ということ……

主人公は、本来なら自分は『幸せ』になるにはふさわしくない、またはこの『幸せ』は自分の身に余るものだ、と思いつつも、それでも『幸せ』でいたい、『大切な人』と一緒にいる”今”を手放したくない、と強く思っているからこそ
この「居座っていたい」という表現になっているのではないかと
思うわけです

そしてそれを「願い」だと言い切ることができるようになったのも、「居座っていたい」と思える”今”を手に入れることができたからこそ、
『幸せ』を知ることができたからこそなんですよね…………

ここの環くんの「願い」の歌い方、本当に切なる「願い」なんだなということが伝わってきて好きです


1番Aメロの「紛れ込んでみた」、サビの「ただ眺めていた」、2番Aメロの「一人では使い切れない」、2番サビの「居座っていたい」…………
(繰り返しになりますが)これらの表現から主人公が『幸せ』というものに対して後ろめたさというか、自分が『幸せ』になっていいんだろうかというような疑問めいたものが感じられて、それが本当にいじらしくて愛しいです

罪悪感も遠慮もいらない!!!!とっととずっと幸せでいてくれ!!!!!!(過激派)

 

ラスサビ

小さなフォトフレーム

瞳に映る肖像

いつかの日、ただ眺めていたその眩しさ

歌詞は1番サビと共通していますが、伴奏のボリュームがぐっと下がって落ちサビっぽくなっています

 

扉を開けたら今

賑やかなほど おかえり

息を止めて受け止めた

ここから伴奏が戻り、ほかのサビと同様二人のユニゾン

 

柔くてこそばゆい

遠くてあこがれで

一粒も零せないもの

ここでまたソロになるのもいいですよね…………

全体に言えることだけど、歌詞割り反対でも全然いけるのすごくいいですよね
(「フルーツ」のところだけは壮五くんが歌った方が意味が通るけど)

 

これが幸せって

僕らもう知ってる

「「僕ら」」

これ初めて聴いたとき衝撃でした
あ、そうか……この曲ずっと「僕」一人の目線だと思ってたけど……
実は「僕」って一人じゃなくて、二人で同じ気持ちを共有して、分け合って歌ってたんだ…………
ってね(大の字)

Bメロラスト1行の歌割りが分け合ってるみたい〜なんて言ってましたけどほんとにそうだったんかいっていう
なんかもうありがとうございました(急に語彙力ゼロになるのやめて)

あとこのサビラスト2行をユニゾンするのはラスサビ一回だけですもんね

 

「僕ら」の衝撃で飛ばしちゃいましたが「幸せ」という言葉が最後の最後ここで初めて出てくるのもいいですよね…………

冒頭にも書いたんですが、”幸せ”とか”大切な〜”という言葉を歌詞で一切使わずに、情景描写と比喩だけでこれだけ幸せや大切なものを表現しているっていうのが本当に好きだなと思います

(記事内ではすでに便宜上『幸せ』とか『大切な人』とか使ってましたが)

なんというか、直接言葉にしないからこそ、それをどれだけ大切に思っているか、もっと言えば素手では触れられない宝物のようなものだと思っているようなニュアンスが感じられていいなあ……と思います
この奥ゆかしさよ
(こういう言葉を使っている他の歌詞を下げる意図はまったくないです)

 

あと音的なことを言うと、この最後の音がド♯と上がったまま終わってるのがすっごく良いなと!!
というのも、いわゆるシメの音、終わりの音的にはファ♯ファ♯レ(ぼく→ら〜↗︎)レド♯ララシ(も↗︎う↘︎しーっ→て↗︎る〜↘︎)と下がるのが一般的というか、終わり感が出ると思うんですけど
あえてレド♯ララシド♯(も↗︎う↘︎しーっ→て↗︎る〜↗︎)と、1番2番のサビと同じように上がったまま終わっていることで、
この「幸せ」はまだ続いてく、続けていくんだ、っていうことを表現している感じがしてめちゃめちゃぐっときました…………泣

 

あとこれは全体通してですが、この曲における最高音のファ♯(F♯3)が各サビの
「これのまえ」
「それはがい」
「これがあわせ」
という、この曲における一番大切なものを指す部分にのみ割り当てられているところが、何というか……
高音=高いところにあるものを見上げるようなイメージから、「あこがれ」ているニュアンスや心から大切に思っていることが伝わってくる気がしてすごく好きです

あとここだけに最高音が使われているということから、楽曲・歌詞の中でもこの部分がすごく大切にされているようにも感じました

 

あと、この曲は一貫してユニゾンでふたりとも主旋律しか歌わない、というのもすごく好きです……!!

もちろんハモリは入ってるんですが(私が全力で聴いた限りでは)全部コーラスとしてのハモリ(本人歌唱)で、例えばモンジェネの「世界中旅をしてくように」みたいにリアルタイムでハモるパートはない……という認識です
(つまりMEZZO"が歌番組でこの曲を歌うとしたらその場ではハモらないでずっと同じ旋律を声を合わせて歌ってるっていうイメージです)

この歌詞が「僕」ひとりではなく「僕ら」ふたりの決意だと考えると、同じ旋律のみを歌うということにも意味を感じられるような気がしてしまいます……

 

 

以上です!

なんと今までの歌詞について書いた記事の中で一番長くなりました(12000)
最後まで読んでくださって本当にありがとうございます……!!