開演前の空気が好き

舞台中心の感想置き場です。

舞台『ブレイキング・ザ・コード』感想 ─自分は自分以外には絶対になれない +タージマハルの衛兵観劇当時の感想

早くももう3か月経ってしまいましたが…
ブレイキング・ザ・コードを観たときの感想が残っていたので投稿。
亀田さん読売演劇大賞の中間選考男優賞選出おめでとうございます!

 

公演概要

第二次世界大戦中にナチスの暗号「エニグマ」を解読し、多くの命を救ったアラン・チューリング
この世界の在りようを大きく変えたはずの彼は、なぜ41歳という若さで悲運な死を遂げなければならなかったのか。
わずか70年前、人が人を愛する自由を許されなかった実在の英雄の物語を、稲葉賀恵の演出で、日本で33年ぶりに上演いたします。

公式サイト:

https://www.breakingthecode2023.com/

 

ざっくり感想…

1幕終わり休憩、情報量多すぎて頭パンクしそうだった。とりあえず後半回収されるのかなと思うので大人しく待つ…
→終演しての感想:ものすごく緻密な舞台を観た……

2幕で1幕での伏線とどんどんつながっていくのが数学の問題を解いているときに近い感覚で、作品のテーマが脚本の構造とリンクしていたのが面白かった!

 

 

以下ネタバレあります

 

 

 

 

 

いつの時代もひとりだけまったく変わらないチューリング

この作品はチューリングの人生のあらゆる時間軸を行きつ戻りつしながら展開していくが、その中でチューリングの服装も声音も見た目もまったく変化がなかった。あえて演じ分けていないように見受けられた。
(アワマグは変化あったのでなおさら気になった)
ということは、この作品においてチューリングのパーソナリティが変わっていないことを示しているのかなと感じた。もしくはすべてチューリングの記憶、命が絶える直前に見た走馬灯なのかもしれない。

お母さんとのシーン

このシーン結構泣きそうになった。
手を振り続ける幼いアランの話をわざわざここでしたことについて。あれはお母さんからの最大級の「愛してる」であり、「ごめんなさい」だったのではないかなと思う。
幼い時分に満足にそばにいてあげられなかったことに対する罪悪感をすごく感じた。
この作品においてチューリングの母は外からみれば愛にあふれた良い母親だったけど、チューリング本人にはまったく伝わっていなかったように思う。
ちなみにその直前に「男となんて…!なんてことを!」という台詞があるけど、これは決して蔑みの意味ではなく、自身の安全を脅かす可能性があることをなんでしてしまったんだという思いなのではないかなとわたしは思った。そのあとも息子に対する態度はほとんど変わっていないし。

「人生の最後に出した答えとは…」

ラストシーン。「人生の最後に出した答えとは…」とフライヤーにあったけど、何なんだろうなあ。
体がなくても心は存在しうるのか?命から体を引き剥がしたとき、心は一体どこに行くのか。クリストファーの心を再現するという目的のために、それを自分で確かめようとしたというふうにも受け取れると思う。
でもこの方法では、生き返ることはできないから仮に死んでそれがわかったところで研究に反映させることはできないし、誰かほかの人がその結果を知ることもできない。ひいては、クリストファーの心を再現するという目的は達成できないことになってしまう。

話は若干ずれるが、チューリングは自分自身にとって“快”である選択しかできない人間だったのではないかと思った。
台詞を思い出してみても、チューリングは徹頭徹尾自分の欲求についてしか話していない。自分以外の人間が抱く感情について、あまりに無関心というか、認識すらしていないように見える。
では幼い頃から疎まれがちだったアランの、おそらく初めての親友だったクリストファーについてはどうだったのかを考えてみる。クリストファーが登場する冒頭のシーンでは、「この家が自分のものだったらいいのに」「君とふたりで暮らす、最高じゃない?」と自分の空想を語っている。しかしここでも『君がよければ』など相手に意思があると理解していると推測できる言動はない。クリストファーが許容してくれるかどうか不安げに見つめるシーンはあるが、それはあくまで自分が拒絶されることが、傷つくことが怖いという感情のように見えた。
したがって、クリストファーの死がチューリングに与えた影響は甚大なものだったけれど、チューリングのパーソナリティ自体はそこまで変化していないと考えられる。
彼のもっとも根本的で大きな目的は「クリストファーの心を再現すること」だが、それも唐突に愛した人を失った自分の心を癒すため。クリストファー自身がどうかとか、家族がどうとかは関係ない。

本題に戻るが、なぜチューリングは自ら死を選んだのか?
彼にとっての目的が上述の通りのものであるのなら、体がなくても心は存在しうるのかどうかの真実を知ってしまうことは絶望につながるのでは?チューリング無神論者であると作品内でも名言されているが、唯物論者ではなかったのだろうか?
(なおWikipediaではクリストファーの死について

 ja.wikipedia.org

“このことがきっかけとなり、チューリングは、無神論者になった。また、脳の働きなどの現象についても、唯物論的に解釈するようになったが[22]、心のどこかで死後の生を信じていたという[23]。”

ときちんと参考文献つきで述べられている)

もし魂が実在するという確信が彼にあったなら、それに従って今まで通り電子頭脳の開発に邁進すればいいだけだったのではないだろうか。でも彼はそうしなかった。そうできなかった。それはなぜだろう。
少し遡ってみる。ニコスに対して自分の過去の仕事について語るシーンで、「あの瞬間は特別だった。クリストファーにもいてほしかった」という台詞がある。
ここで私はクリストファーを再現するということは逆にクリストファーの非実在性を強調することになるのではとか考えてしまうけど、なぜチューリングがそのタイミングで死を決断したのかの理由にはならないし、そもそもチューリングがこのような思考に至ったかどうかもわからない。いくらここで考えても、ここまでで提示されたヒントを元にチューリングが至りそうな合理的な結論を出そうとしても、出ない。(なお、チューリングは数学を扱う上で非常に論理的だったが、しかし自身の意思決定においては大して理論的ではなかったということも思い出される)チューリングが何を考えていたのか、分からない。
魂の存在を否定する考えと死後の生を信じたい心との折り合いをつけることがチューリングの中で限界を迎えたと考えることもできるかもしれない。

劇中コンピュータについての説明の中で、何が正解で何が間違っているのか、それを決めることは非常に難しいという話があったが、人間の思考も同じだということにつながっていたのかもしれないなと感じた。人の数だけ正解があり、人の数だけ間違いがある。
ここに『私』がいるかぎり、あくまで私の感受性、思考回路、理論を通すことでしか物事を捉えることはできない。『私』は『私』以外には絶対になれないのだということに、今回この問いを通して気付かされた。

 

俳優さんたちについて

書き終える前にメモが終わってしまっているので2人分しかない…
・亀田さん
凄い。私がほかに観たことあるのが「タージマハルの衛兵」だけだからだとは思うけど、どうしてこんなに『愚かなまっすぐな人間』になれてしまうのでしょう?
岡本玲さん
いわゆる「舞台女優」の演技になっててびっくりした〜モデルさんのころの彼女しか知らなかったので。

 

その他こまごま

・史実と作品での役名が2名ほど異なっていたのが気になった。どちらも史実とは少し違う展開になっているから実名を使わず変更したのか、それとも使用許可を取れなかったのか、などなど理由はわからないが。

・ドライバーの名前がわかるシーン、どういう意味だろう(と思っていたけど考えるの忘れて3か月経ってしまい忘れてしまった…)
余談だけど直ったラジオから流れる音楽が本気のギリシャ民族音楽だったのちょっと笑ってしまった(民族音楽勉強していたことがあるのでわかってしまう)

・最後の新キャラとして出てくるニコスがクリストファーと同じ役者さんなのはどきっとした。

 

おまけ(?) タージマハルの衛兵観劇当時の感想

当時のメモを見返したら少しだけだけど感想を書き留めてあったのでここで供養。
感想を書くのに慣れていないころだったので短いし取り留めもないです。


・個と全。
(追記:新国立劇場演劇の2019/2020シーズンの「ことぜん」(個と全)シリーズ三作のラスト作品だったことをかみしめてのコメントと思われる)

・考えることが多すぎて、表情とか細かいところ追いきれなかった気がする… もう一回見たいと思った。
(追記:当時同じ作品を2回以上見たことはなかったのでこの感想はかなりの衝撃だったと思われる)

・セット、照明がシンプルですごくいい。スモークの効果が抜群だった。

・見るもの考えるもの受け入れるものが違うふたりの行き着く先…

・成河さんの演技、一般的には常識人に属するフマーユーンの不安定さがすごく出てた。何かを信じる人間の不安定さを感じた。水をかけてもらうときの、もっと、もっと、もっと!はすごかった……

・亀田さんナチュラル。すっと入ってくる演技。

・やはり問題のシーンはなかなかくるものがあった。前の方の席でなくてよかった。というより、あんなに汚して大丈夫なんだ…というのが先に来た笑

・掃除する場面でも、ふたりの意識の違いが如実に見えた。切り落とされた手を拾い集めるバーブルと、一切手を触れない視線も落とさないフマーユーン。

・美を殺した!のシーンも。「お前と俺」と言うバーブルと、「俺とお前」と言うフマーユーン。全体として、その亀裂、分断を非常に強調させる脚本だったように思う。

・ラストシーン泣きそうになった。お互いに、悪意なんて1ミリもない。ずっとふたりで暮らそうなんて言うし、殺されないために嘘の罪を申告する。泣いて父親の脚に縋り付くことさえする。そんなにもお互いを(喧嘩はするけど、心の底では)大事にしていても、結局ふたりは離れ離れになってしまった。何がいけなかったのか?誰のせいなのか?人とは違うことを考えてしまう、そしてそれを言わずにはいられないバーブルが衛兵という仕事についてしまったこと。貧しい階級の出身(と見受けられる)からは、そうでもしないと食べていけないという社会構造。そして隣にいた幼馴染のフマーユーンと見る世界が違ったということ。

最後にフマーユーンの見た幻は、たぶん彼が一番楽しかった記憶だったのだろうなと思うと…………切ない。